Newsletter Volume 30, Number 2, 2015

若者へのメッセージ

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「究めんとすれば,即ち休息なし」(その2)

北陸大学名誉教授
山本郁男

前号(その1)に薬物代謝研究の道に入った駆け出しの頃の研究生活を喜怒哀楽的に綴らせて貰った.今回は,学位,国立から私立大,新しい研究,そして留学.希望と涙の研究人生は続く.拙い経験と文章の中に如何ほどの若者へのメッセージが,はたして含まれているのだろうか.不安と心配の中で再び重い筆を握る.

3. 薬物代謝を基盤とする薬物の薬効・毒性研究

 研究生活の中で,自分のライフワークを見つけることは容易ではない.しかしながら,これを念頭に置かなければ,研究はいつも単発・火縄銃で終わる.研究は「あみだ籤」,横線が多いほど面白い.基(元)に戻ることもある.研究の出発点は人によって様々である.LEDの天野教授.オワンクラゲ(イクオリン)の下村博士.私の場合は薬物代謝.千差万別,百人百様,千紫万紅.しかし,その中に運と不運が鏤められている.運が良い,不運であると感じ方も人によって異なる.結果として,研究者自身の力(摩訶不思議と言おうか)と,それを取り巻く集団の力(協働体のシグマΣ)によって決定される.多くの場合,良好な結果では終わらない.協働体(共同,協同ではない)は,しばしば壊れやすい土器だ.私は「止揚」(Aufheben)という言葉が好きだ.科学は「止揚」によって発展する.いらぬことを書いたが,本流に入るとしよう.

1)サルファ剤によるアレルギー発症機作

 九大に提出(主査 塚元久雄教授)する予定の学位論文「2-Methyl-3-ortho-tolyl-4(3H)-quinazolinoneの生体内変化に関する研究」もほぼ目鼻がつき,最終の追い込みにかかった昭和41(1966)年の秋,私の身に青天霹靂のような事が起こった.ある朝,村田教授より「静岡薬大,伊藤四十二学長から招かれて来年4月から移ることとした.しかし,君は連れてはいかれない」と言われた.茫然自失.村田教授は熊大薬の基礎を築いた安香堯行(私立九州薬学専門学校校長)先生の娘婿であられ,学内に岳父の銅像もあるくらいで,私には全く,言葉は悪いが「捨てられる」とは考えてもいなかった.将来はノーベル賞とはいかぬまでも学会賞は取って貰いたい.少しでもその力となりたいと私でも思っていた.周囲を見ると私の我儘は許されることではなかった.学内にはひそかに転職を勧める教授もいた.「教室を空にする」という意図が感じられた.学位後はどこか保健所か小さな研究機関でもと真剣に考え夜も寝られなかった.言葉は適切でないが「棄てる神あれば助ける神あり」.(その1)にも若干触れた様に,村田教授は私の研究を幸いにも吉村助教授(昭和46年9月塚元教授は九大退官後,福大薬学部長に就任,後任として吉村助教授が教授となる)に託してくれた.「助ける神」はさらに続く.九大薬の塚元教授同門の山本 陽教授が翌年4月後任として就任された.だが,村田教授と新任の山本教授は全く正反対といおうか対照的な御性格の指導者であった.<若い時は違ったタイプのボスにつく方がよい>.村田教授は基本的には自由主義.私は一度も叱られたことはなかった.博愛,寛容,柔和.それは自身の闘病(結核)の結果と思われる.しかし,一度だけ「助手の仕事は3年生の実習と自分の学位論文研究だけではないよ」と言われた.これについては後述したい.一方,山本教授は厳格無比.特に研究に関しては「君は筆頭助手だから」とよく叱られた.九大における,吉村,加藤,山本の三助手時代.山本教授から薬品の購入伝票の差し止めを受けた院生もいたとかの噂も聞いた.「恒温槽の水は蒸留(精製)水を使う」「銅製水浴は,常にピカピカにして置く」.「コピーは筆頭助手の仕事」,毎朝欧文誌コピー(ゼロックスはまだ無かった)は10誌を超えた.教授の言行は全く理に叶うものであった.忙しく弁当を食べる時間もなく持ち帰ったこともしばしばであった.今まで甘やかされて生きてきたことを悔い悟った.教授は就任間もなく,「私の前で,村田教授の仕事はしないように」と言われた.私は,それは至極当然と考えた.夕方6時まで教授の研究をして,教授が帰宅された7時から12時まで自分の仕事をした.勿論,朝8時出勤.教授の朝は早かった.聞くところによると陸軍幼年学校卒であったらしい.山本教授の下での3年間,昭和43~44年にかけての全国的な学園紛争があったが,研究者として重要な糧となった.学園紛争については紙数の関係上省かせて頂く.

 ここで,村田教授時代の話を閑話休題-(1)として挿入させて貰う.

閑話休題-1 助手の仕事と研究

 「若い時の力こぶ(若い時の苦労は買うてもせよ)」と俗にいう.熊大における10年間の助手の研究生活は家の建築に例えれば,いわば基礎工事であった.卒業後,2年間薬剤師として社会にあった私は研究にとっては空白の時代であった.戻ってきた大学も随分変わっていた.私の学生時代,昭和34(1959)年頃の教室(講座)は生薬学,生薬化学,薬品製造化学(その前は,製薬第一教室),薬品製造工学(製薬第二教室),薬化学,薬剤学,薬理学(加来天民教授時代は薬効学),薬品分析学,衛生化学教室の9講座.馬小屋式のバラック.私が研究生活に入ったのは昭和36(1961)年,その後に生化学,薬品物理学,放射薬品学,生物薬品製造学,そして製剤学と順次増設(生薬学と生薬化学は合併,統合)され,IR,GC,RI施設(MS,NMRはなかった),分析機器も次第に整備されつつあった.地方大学(駅弁大学と揶揄されていた)にも研究の機運も高まり,昭和39(1964)年4月には待望の大学院研究科(修士課程)が設置された.私は運良く3年目にして教務職員から文部教官(助手)に昇進することができた.村田教授は東大卒業後,秋谷七郎(衛生・裁判学講座)教授の下で助手を務めていたが第二次大戦中,結核を患い,療養生活を余儀なくされた.助手時代,朝早くモップで教室の床を拭き,空襲警報のサイレンが鳴ると教授の講義ノートの入った風呂敷包みを持って防空壕に入ったとか,助手時代の話をよくしてくれた.戦後,札幌医大・法医・助教授をされ,教授の松永 英(遺伝学の権威)との関係上「精神薄弱児の生化学的研究」をライフワークとして挙げており,医学博士と薬学博士の両方を取得していた.「非バルビツール酸系催眠薬の代謝研究」も「神経科学」の一環として捉えていた.「研究は常に高い目標を!低空飛行をするな!」が口癖であった.能力の無い私は振り返ると低空飛行の連続の人生に思える.助手になった1年目の秋,教授,講師共々出張の折,公衆衛生学会の地方部会が熊本であり,早くも「フェニルケトン尿症の研究」の一部を発表する機会を作って頂いた.勿論,大勢の人の前での発表,スライド作成等々初めてであり,貴重な経験であった.村田教授は温和で,社交性に富み,学会,薬業界と幅広い人脈の持ち主であった.私は好きではないのに,よく色々な人を紹介して頂いた.一度は,北海道の日本薬学会で秋谷七郎教授と赤木満洲雄教授(北大名誉教授)と4人で会食.何を食したか記憶のないこともあった.

 教授は「助手は学位論文の研究だけでなく教室の種々の研究に携わらなければならない」と言われた.これらの幾つかを以下に挙げる.「有明海産の二枚貝による食中毒」,「公立病院における浄化槽中の清掃者の事故死」,「肥後ずいきの研究」,「蛆虫のタンパク質の分解消化作用」,「水俣病に関連してメチル水銀ラベル化合物CH3203HgOH(Cl)の合成」そして「胃酸過多症治療剤の人工胃液中における溶解」(この結果は英文で提出させられた)等々.うまくいかず途中で諦めたものもあったが全般的に楽しく従事できた.この他,ここで書くべきか迷うところであるが当時の助手はそうであったかと思うので記す.夏休み中,御家族が東京の実家に帰省中の愛犬の世話(餌,散歩).東京出張時の切符の手配.(当時は熊本~東京間は15~6時間かかった),御中元,御歳暮のデパートからの送付など.村田教授の話術は巧みで,頼み方は絶妙であった.勿論,講義,講演は人を魅了するに非常に上手く,皆の感想も異口同音であった.メタカロン(MTQ)の服用の際もそうであり納得した.私には肉体的欠点も有り,どちらかというと対人交渉は苦手の方であった.だが,私は村田教授の下での7年間のお蔭で,食品添加物の食品公害として騒がれた時代,山本教授に勧められた講演や新聞の執筆の際に大変役に立った.若い頃は嫌がらず何にでも挑戦すべきであろう.なすべきか,なさざるべきかと迷った時は,90%なした方がよい.止めれば悔いが残る.研究に関してもメタカロンの代謝物の抽出にあたっても改良を重ね,「最近の連続抽出器について-特に比重の大なる溶媒を用いる抽出器の紹介」として,蛋白質 核酸 酵素11:685-687 (1966),や3年生の実習中,牛乳中の脂肪の定量(Gerber法)において学生が濃硫酸で火傷を負ったことにヒントを得,「濃硫酸の代わりに界面活性剤を用いる牛乳中脂肪の定量について」薬局16:189-192 (1965),同誌16:581-582 (1965),これらは続報として,衛生化学16:119-123 (1970)に3報掲載され,報告数の少ない私を救ってくれた.実は,(その1)で書き忘れたが教室配属の4年生の時,理論薬剤学の岡野定輔(東大 石館守三先生の弟子)教授の教室に入ったのだが東北大薬の一色 孝教授の突然の死によって岡野教授は後任として仙台に移られることになり,教室は分散.林教授の薬品製造化学教室に拾われた自分であった.薬剤学→薬品製造化学→衛生化学と渡り歩いたが「社会薬学」を標榜する衛生化学は今思うに自分に適していたかも知れない.村田教授には感謝の言葉しかない.よく研究職にある若い人が上司に不平を言ったり,研究テーマに不満を託つことを聞くが,研究の場(職業として)を与えられていること自体を謙虚に感謝して最大の努力を払うべきではないだろうか.化学療法の先駆者,エールリッヒは研究には4つのG(私共の学生時代,大半の教授はドイツ留学をはたしていたので,よくドイツ語が口から出た.九大の学位試験も英語とドイツ語であったなどドイツ語を使うことを許されたい)が必要である.それは,研究費Geld(金),Geduld(忍耐,努力),Geschick(技術,腕前),Glück(運)という.学生時代の林教授は,これらに加えてGesund(健康),Gutgesinnheit(善意)とGottesfurcht(神を怖れる心,謙虚さ)の3つを挙げている.特に後の「2つの心」があれば理研事件は起こらなかったであろう.私は僭越ながら,先に記したように,どんなところでも良い,研究の場さえ与えられているならばという意味でGeschäft(仕事)を追加させて貰いたい.

 一寸長い閑話になったが,元に戻して続けよう.山本教授の私へのテーマは,「サルファ剤のアレルギー研究」であった.山本教授の考えはこうであった.薬物(剤)アレルギーは薬物が細胞内に侵入し,生体内高分子化合物と結合し,その高分子に新しい抗原性を獲得させることが発症の原因である.サルファ剤の体内代謝の過程でハプテンが形成される.山本教授はグルコサミン及びグリコペプチドの研究の際,糖タンパク質の結合部位がグルコサミンとアスパラギン酸(1:1)の結合体を実際に初めて合成によって立証された方で,薬剤アレルギーに関しても薬剤とタンパク質の結合体を有機化学的に実証したいというものであった.この目的のためにサルファ剤中,最も簡単なスルファミン(スルファニルアミド)をやろうということになった.スルファミンは第二次世界大戦中,連合軍のイタリア前戦において負傷兵の治療に多量に用いたスルファミンによって屋外の太陽光線下,光線アレルギーの報告のある薬物でもあった.このことにより私は非常に興味を持ったことは言うまでもない「物,結合せざれば作用なし」ここでもエールリッヒとドマークの理論が思い出された.しかし,これまでの研究のように非標識化合物を使った代謝研究はだめであり,ぜひとも標識化合物を用いたい.35Sを用いることに計画を立て35Sの入ったH2SO4でのスルフォン化を行ってスルファミンを合成することにした.この案は教授に認められた.文献によるスルファミンの代謝は①アセチル化(N1とN4位)と芳香環の水酸化,それにN4位アミノ基のヒドロキシルアミノ化である.また,紫外線や肝ミクロゾームとNADPH+O2下ヒドロキシルアミン化が報告されていた.O2N-Ph-SO2NH2をHOHN-Ph-SO2NH2にする方法は,いろんな方法が考えられたが,Zn及びSnを用いての還元ではいずれもうまくいかなかった.数ヵ月間を費やしたが最終的にアスコルビン酸をアンモニア中で還元剤として用いて収率良く4-ヒドロキシルアミノ体を合成できた.この実験で不安定な化合物も純粋にすれば案外安定であることを知った.この合成によって山本教授から初めてお褒めの言葉を頂き認められた.私はいつも他人に認められるのには2~3年かかる.そういう運命に生まれたかも知れない.この合成体を有効に用いて研究を進めていくこととした.また,このヒドロキシルアミン体はNa-ペンタシアノアミノフェロエートと紫色に感度良く呈色するのでTLCへの利用と定量法の開発を目指すことにした(Chem. Pharm. Bull., 21:757-761 (1973)).

 丁度その頃,またもや一身上の変化がもたらされた.ある午後九大の塚元久雄教授から直々の電話で,「第一薬大に移らないか」という話であった.当時の第一薬大の評判は正直いって良くなかった.多くの先輩が他の教室であるがいずれも敬遠していた.実習が多く研究どころではないなどの噂も聞いた.だが,私は二つ返事で承諾した.私は後で相談しないで決めたことを家内に詫びねばならなかった.研究者の苦悩と決断がそこにあった.昭和45(1970)年6月15日国立から私大へ講師として赴任した.国立に未練がなかったと言えば嘘になる.教室は衛生化学.教授は吉田和夫(熊大,九大院,塚元門下生)年齢が6歳上の温厚な方で多少の面識もある方であった.教授からの新しいテーマは「大腸菌中のβ-グルクロニダーゼの研究」であった.吉田教授は院生の頃,後に九大教授となった加藤敬太郎助手の下で薬物代謝における重要な抱合反応,グルクロナイドに関する研究で学位を取られ助教授として第一薬大に赴任され3人の九大薬卒の女性助手とかなりの業績を挙げられた方である.研究も新たにグルクロナイドに進むべき文献等を集めていた時,大腸菌の培養について難題が持ち上がった.まず,菌の培養規模(ドラム缶使用),部屋の問題で,どうしても第一薬大の施設では無理であることが分かった.そうこうしている内に,山本 陽教授と吉田教授(お互いに師弟の関係あり)との話し合いで,私は「薬物アレルギーの研究」を熊大に引き続いて行えるようになり,永江玲子(後 絵柳,薬学博士,前第一薬大教授)助手を共同研究者として迎えることとなった.RI施設も吉村教授の計らいで九大医の施設を使用させて貰った.ラジオオートグラフィーでスルファミンの分布,代謝,排泄研究も進行,日本薬学会主催の第9回薬物代謝と薬効・毒性シンポジウム(熊本)において発表することができた.このシンポジウムは周知のように1969年に第1回が開催され23回まで毎年続き,1993年から現在の本学会(日本薬物動態学会)のシンポジウムとして発展したものである.私はこの学会シンポジウムによって成長,北陸大学に移った昭和55(1980)年の第12回と日本薬物動態学会に移っての第11回の年会長を務めさせて頂いた,私と教室員一人ひとりの血となり肉となったシンポジウムである.これについては紙面の関係上,他の方も多分触れると思うので省かせて頂くことにする.

 第一薬大時代RIを使うため千葉にある放射医学研究所の防護課程の研修7週間は有意義で多くの知人,友人ができた.昭和52(1977)年,初めて外国雑誌にサルファ剤に関する研究でacceptされた「Positive skin reaction induced by 4,4′-azoxybenzenedisulfonamide in relationship to the sulfanilamide allergy. Int Arch Allergy Appl Immunol. 54:538-541 (1977)」であった.熊大時代「生体内のニトロ基の生成」をNatureに送りrejectされていただけに雑誌の質こそ違え,無性に嬉しかった事を憶えている.

2)バルビツレート及びモルヒネの耐性・依存性獲得のメカニズム-耐性マウス作製とバルビツレート拮抗薬の探索

 私立大での教育(公衆衛生学,裁判化学)にも慣れ,研究も軌道に乗り,絵柳助手も戦力となりつつあった.ふと忘れたことを思い出したのは留学であった.私は(その1)でも書いたように大学院を出ていない,大工である.このコンプレックスを払拭するためには留学しかないと思い込んでいた.しかし,当時,第一薬大の若手の留学者は皆無であった.教育負担が多いため留守中の講義など頼む道理はなかった.又留学をお願いする上司もいなかった.教授は健康上の理由で留学しておらず,基本的に反対であった.熊本時代の私は,この曖昧模糊,中途半端な状態を脱出し,一角の研究者になるには外国での研究によって鍛える以外にないと確信していた.この過程は一寸駄文の部分もあるので閑話休題-2として次に書くことにする.結果として,これまた九大,吉村教授のご推薦を得て米国カルホルニア大サンフランシスコ校(UCSF),医,薬理学教室に昭和48(1973)年8月1日から1年間の留学を大学側も,教授も認めて貰った.年齢はやや遅い36歳であった.

閑話休題-2 留学は必要か

 ある留学経験のある教授曰く,「外国に行っても今は学ぶべきものは何もないよ」.「先方に利用されるだけだ」.また,「目的意識なくただ外国に来て2-3日研究室に顔を見せ帰国したら留学したと堂々と言っている人もいるよ」.2年間いて何の報告(論文)もなく,家族で観光旅行をしている人,もっとひどい人は(言葉は汚いが)「ただ立小便をして帰る人」など必ずしも留学を賛美するだけではない方もいることを知った.あくまでも留学というのは手段であって目的ではないと自覚,自認した.村田教授は米国出発を前に「ビッグマンを見てくるように」と言われた.私にはこの意味が良く分からなかったが,次第に理解できるようになった.私の正式な所属はUCSF薬理学教室とラングリポーター精神研究所に属していた.教授はDr. E.L. Way(中国系米国人,世界的モルヒネ研究者,前全米薬理学会会長)でChairmanとして総勢90名余りの研究員を統括.自分自身の研究員として30名余りを従えていた.私はこの中で助教授のDr. H.H. Loh,講師のI.K. Hoグループの下で研究に従事した.Dr. H.H. Lohのバルビツレートの耐性・依存性研究にNIHより5年間で25万ドルの研究費が下ったとのことであった.というのは,米国では有名女優や音楽家がバルビツレートによる中毒死(自殺を含む)の数が毎年3000名以上ということで社会問題となっていたからである.

 Dr. H.H. Lohは吉村教授と以前ハワイで開催された日米麻薬会議でお互い知己の間柄であった.私は単独で薬物アレルギーの関係でジョンズホプキンス大学やコロラド大学,テキサス大学サンアントニオに求人を求めてapplyしていたのであるが,何の進展もなく留学は半分諦めかけていた.丁度そんな時,九大薬の姫野 勝(後九大名誉教授,長崎国際大薬部長)助手からテキサス ベイラー大学のDr. Buschがresearch fellowを求めている.応募しないかというものであった.研究は癌であった.私はアレルギーも癌も大半は化学物質による,全く同じだと考え早速応募した.すると間もなく3人の推薦状を求めてきた.村田,吉田両教授,3人目の推薦状はと考え,九大の吉村教授にお願いすることにした.この時思ったのだが福岡の第一薬大に決めて良かったと思った.人生航路上,しばしばこの様なことが起こる.偶然ではない.何かが作用-私はこれを止揚として把える-していた.吉村教授も多くの研究者を持っているのに-恐る恐る推薦状のお願いに行った.すると教授はこう言った.「君,留学したいのかね」.推薦状はすぐに書いてくれた.Dr. Buschに送ったにもかかわらず,なかなか返事は来なかった.数ヶ月後だった.忘れもしない昭和47(1972)年5月の連休の日.東京の日本薬学会衛生調査委員会の後,千葉の妹の家に吉村教授から連絡があり,上記のUCSFのDr. H.H. Lohからの留学の話が持ち上がったのである.テーマも格好のバルビツレートの耐性・依存性であった.非バルビツレートの代謝研究が生きたものとなった.くだくだしい文章となったが私の言いたいところは,当たり前であるが「初志貫徹」の精神であろう.私にはもっと勇気が必要であることを悟った.研究にも.後には,教育にも,これが必要であることを知った.

 留学先を選ぶには運も必要である.研究テーマ,ボスの年齢,研究所の位置(都市),etc.こちらから全ての条件を満たすことは不可能である.1~2つが合致すれば満足すべきである.後は自分の力(俸給,研究費,機器,薬品,動物etc)で切り開いて行くしかない.ここでも場Geschäft(仕事)としての認識が必須となる.

 結論を急ごう.時代が今後如何に変わろうともグローバル社会.世界は絶えず動いている.他流試合は必要だ.真剣勝負も又良い.それには語学を磨かねばならぬ.私は20代の頃からイギリス人の宣教師や2,3の米国人に会話を習っていたのだが,佐藤哲男教授の足下にも及ばない.もっと会話が楽しめたらと常に思う.若い内に外国に出て,家族を連れて母子家庭(研究者の宿命か)の借りを一気に返してあげよう.「井の中の蛙大海を知らず」というよい故事があるではないか.

 話を元に戻す.

 私は今まで4度海外留学の経験が幸いにも持てた.第1回目は前述のUCSF昭和48(1973)年の14ヶ月と翌年昭和50(1975)年4ヶ月,後述するが北陸大に移った昭和58(1983)年は4ヶ月,Dr. I.K. Hoが赴任したミシシッピ大・医(ジャクソン)に客員教授として,さらに昭和62(1987)年,1ヶ月中国北京中医薬大・交換教授として北京に滞在した.

 サンフランシスコの研究ではまずバルビツレート耐性マウスの作製に始まった.バルビツレートとして短時間型のペントバルビタール(PB)を使用,連続注射法と,既にモルヒネで成功しているペレット法をPBに応用した.ペレット(錠剤)にするには種々の賦形剤を加え耐性獲得を肝のミクロソームのPBのω-1 OH(ラベル体)を指標として測定した.その結果,マウス背部皮下に移植した方が10日間注射PB 60 mg/kg p.o.よりも8日早く,耐性獲得も4倍であった.睡眠時間はペレット法では1/6,10日間連続注射法ではわずか1/2であった.T1/2も10分のペレット法に対しp.o.法では48分,生理食塩コントロールでは81分を示した.この場合のエチルモルヒネN-脱メチル化はペレット法ではコントロールの3倍,p.o.法では2倍弱しか示さなかった.この結果は,American Society for Pharmacology and Therapeutics, Fall Meeting(ASPET, モントリオール)で口頭発表.「A model for the rapid development of disposional and functional tolerance to barbiturates」 としてEur. J. Pharmacol., 30:164-171 (1975) にacceptされた.このUCSFで開発されたpellet法は帰国後,小栗一太(故九大名誉教授)との共著で「モルヒネペレットの話」としてファルマシア 12:398-399 (1976)に紹介された.

 2回目のUCSFからの帰国後,すなわち昭和51(1976)年私に教授という話が持ち上がった.大学は同じ私立の北陸大学(金沢)であった.私は堅く2-3度断った.まだ,39歳.九大には私の先輩,同輩の方が沢山いらっしゃったこともあり,第一薬大は何となく自分に性に合った大学であった.学生達も可愛かった.スルファミンのアレルギー研究もN4位のヒドロキシルアミン体と高分子との結合も高圧ろ紙電気泳動装置(科研費)も導入され結合体の存在も明らかとなりつつあり,モルモット皮膚反応を利用しての確認も容易となったので,福岡を動くことは憚られた.留学も2度に亘って許可してくれた大学側にも悪いと思っていた.しかし,流れは滔々として最早自分の力ではどうしようもなくなっていた.後任の助教授も重松秀成(熊大卒,九大院,吉村教授門下生,昭和大薬講師)に内諾を得,薬剤(物)アレルギーの絵柳助手の学位論文の仕事も引き続き指導してくれる見通しもできることになった.そして,昭和52(1977)年4月1日北陸大学薬学部衛生化学教室を主宰することになる.

3) 大麻成分の代謝と薬理・毒性

 薬物アレルギー研究というライフワークを失った時,いくつかの研究が考えられた.それは,UCSFでの研究でDr. I.K. Hoから懇願されたバルビツレートの拮抗薬の合成であった.モルヒネの研究がかなり進んでいるのはナロキソン,ナノルフインというモルヒネ拮抗薬の存在があった.そこで,第一にこれを研究主題とすることとして,バルビツール酸骨格へのアリール基を導入する研究を始めた.

 もう1つは,米国留学中,サンフランシスコ,ゴールデンゲートパーク内でマリファナを吸い,踊る若者をみたこと.2つはDr. E.L. Wayからマリファナ中毒の話を聞き,帰国後日本も流行するであろう,研究をしたらという勧められたこと.3つ目は偶然といおうか,帰国後,北陸大学への転出と吉村教授から大麻研究(それまで全く九大で大麻研究をやっていたとは知らなかった)で修士にいる第一薬大出身の渡辺和人(現北陸大薬教授)を助手にという推薦であった.大麻草もこれまた九大生薬学教室の西岡五夫教授から分与されることが決まった.

 大麻は局方の五局まで鎮静,催眠薬としても使われ「睡眠とは何か」を究極のライフワークとも考えていた私にとっても格好の題材であり,かつ,「大麻取締法」の対象の乱用薬物の1つでもあった.すぐに石川県庁を通して厚生省(当時はまだ厚生労働省に非ず)に大麻研究者としての許可を申請した.

 教授就任にあたって私にとって厄介な問題があった.それは人事であった.(その1)に執筆にあたり重い筆と書いたのはこの事である.まだ,存命の方もおられ教室誕生に多大の力を下さった方々であり,あまり迷惑をかけたくない.しかし,事実であり少し身を引いて述べさせて頂く.他の社会でも人事はとかく問題を起こし易い.事前の約束ではスタッフは教授1,助教授1,助手3であったが,北陸大学で4月1日辞令を頂くと(ふたを開けてみると)いろんな事情で塚田司郎(金沢薬専卒)講師,坂元倫子(金沢大薬卒)助教授,それに渡辺和人,成松鎭雄(現岡山大薬教授),山木恵美子(富山医薬卒)助手の計6人体制で出発することになった.実を言うと,もう1つ環境衛生学教室の設立を当初予定していたが文部省(現 文部科学省)から認可されず2人が衛生化学教室に組み入れられたのであった.三浦孝次学長,越浦良三学部長から当初,助手3のうち2を2人の助教授と講師に与えてくれとの要望であった.しかしながら,これは断固として断った.連日学長室と学部長室に通った.今までない大きなエネルギーを使った.しかしながら色んなことを勉強もし,反省もさせられた.教授の仕事は人事問題と論文作成に尽きると思う様になったのもこの頃である.後に睡眠に関してウリジンが東大の内園教授,東京医科歯科大の井上教授によって24時間断眠ラット脳中に発見され睡眠促進物質(Sleep Promoting Substance)と命名された時,私はこのSPSをもじって教授として必要なのはS=Spirit(精神力),P=Paper(論文)とS=Smile(笑)をあげた.即ち,和をもって教室を運営しなければと自戒し,実施.努力目標とした.この人事問題は2年後,大学側の計らいで両先生は環境科学教室が設置され円満に教授,助教授として移られた.こういうケースはよくあることだとある先輩教授に慰められた.分離後も塚田教授は私の研究グループを指導してくれた.今は学長,学部長の御尽力に感謝している懐かしい思い出である.

 大麻研究は大麻事犯が急激に増加した昭和60(1985)年頃には新聞,TVにも駆り出された.大麻の主成分,テトラヒドロカンナビノール(THC),カンナビジオール(CBD),カンナビノール(CBN)を次々と大麻草から分離,化学的変換,または酸化反応によってあるいは米国のNIDAから代謝物質の標品を得,同定,定量あるいは薬理試験(カタレプシー反応,バルビツレート睡眠延長作用,体温降下作用)を指標として数々の活性代謝物を明らかにし,さらにTHCを鍵物質(Key Substance)としてMALDO(microsomal aldehyde oxidase),MALCO(microsomal alcohol oxidase),ES46.5K(microsomal esterase)等の新規の酵素群を発見した.これらの研究では渡辺和人,成松鎭雄,松永民秀(現名古屋市立大教授)はマウスからMALDOの本体となるP450分子種のcDNAをクローニングし,P450命名委員会からCYP2C29と命名された.MALDO活性は動物種によって異なり,ラット(CYP2C11,CYP3A2),モルモットは不明であったがサルではCYP2C37,ヒトではCYP2C9と複雑性をみせた.P450分子種の違いは今後も大麻の毒性研究に関連してくるものと考えられる.

 話は前後するが,大麻草はやがて九大(正山征洋教授)より種子を頂き,北陸大学の薬草園で栽培.THCの標品は石川県はじめ各県警鑑識課に分与,喜ばれた.栽培,抽出,成分分離には全教室員が協力した.大麻3部作,「大麻の文化と科学」(廣川書店),「マリファナは怖い」(薬事日報社),「大麻-光と闇」(京都廣川書店)も出版されている.大麻成分は異常に高い脂溶性(n-オクタノール/水 分配係数6,000)を有するため体内の脂溶性栄養素(脂質やビタミン類),ステロイド,さらにプロスタグランジン,ロイコトリエンなどとの相互作用が十分に考えられる.

4. エピローグ

 北陸大学の研究室に1枚のイラスト(図-1)が揚げられている.これは大麻の主成分THCを餌として大海に入れられている図である.前述のようにTHCは生命というブラックボックス(大海)に釣竿によって下げられている.このTHCに喰いつく魚,未知の生物体こそが新発見なのである.THCは脂溶性に富むC,H,Oのみからなる物質である.我々はこれを毎日眺めることによって新たなる研究をと情熱を燃やすのである.門下生,木村敏行(現・北陸大・薬・教授)と宇佐見則行(現・北陸大・薬・教授)に今後の発展を期待している.

 なお,睡眠についての研究は大部分省略させて頂いた.一部は「新睡眠薬及び睡眠拮抗物質の探索から睡眠機構研究に辿りつくまで―バルビツール酸からウリジンまで」,薬学雑誌 125:73-120 (2005)として発表されている.ご参照下さい.

さて?何が喰いついてくるか.楽しみ

図-1

若者へのメッセージとして中途半端で断片的な私の履歴書風となってしまった.誠に申し訳ない.

御笑読を感謝する次第である.