Newsletter Volume 32, Number 5, 2017

追悼文

(故)田中 實氏

-田中 實氏を偲んで-

一般社団法人医薬品開発支援機構代表理事
池田敏彦

 薬物動態学会名誉会員の田中 實氏が,2017年9月14日,肺炎のため逝去された(享年83歳).訃報に接し,誰も押しとどめることのできない時の流れというものをひしと感じ,嘆息するばかりであった.

 田中 實氏は筑波大学の前身,東京教育大学理学部にて植物生理学を専攻され,しばらく大学に籍を置かれた後,三共(株)に入社された.私は10年以上遅れて1972年に同社に入り,新設の薬物代謝研究室に配属されたが,そこで初めて,生化学的研究のエキスパートとして活躍されていた当時の田中副主任研究員にお目にかかった.それ以来,三十数年の長きにわたり,研究の大先輩として,続いては職場の上司としてご指導を賜った.指導と言っても声を荒げるようなことは一度もされなかったが,我々がルーチン業務をいそいそとやっていると,田中 實氏流の研究ダンディズムに基づいた「教育的指導」が下された.例えば,放射性標識薬物を用いたマスバランス試験などは新薬申請上必要ではあるものの,それ以上の追求をやろうとしない姿勢は研究者としてはいかがなものか,と戒められたのである.それは大抵,研究室の一角におけるビール一杯で始まり,近くにいた若手を巻き込んだ居酒屋での酒盛りに発展し,終電近くまで続くことが多かった.翌朝,我々は胃腸薬,風邪薬,ビタミンC,ロキソニン,熱い朝風呂など,それぞれが信ずる処方でご薫陶の副作用を洗い落していたものである.これが習い性となって,私自身,後に研究グループをまとめるお役目を頂いてからは,無意識にこの田中 實式を踏襲していた.

 研究におけるダンディズムはいたるところに発揮され,当時,注目を集めていたシトクロムP450に関して,発見の経緯から最近の研究結果までを網羅する勉強会を主催され,研究室の活性化を図られていた.これに限らず,cyclic AMPなど,当時の科学トピックについても勉強会を開催され,生化学における潮流を逃さない努力をされていたのである.確かに,画期的新薬というものは,そのような努力の積み重ねで生み出されるものであろうと思う.そうした見識をどのように育まれたのか,詳しく伺ったことはなかったが,おそらく,東京大学医学部の江橋節郎教授およびカロリンスカ研究所のSten Orrenius教授という最先端を行く研究者のもとに留学されたことが影響したのではないかと拝察している.

 地道ではあってもサイエンスの追求で新薬が世に出た特筆すべき一例は,田中 實氏が西垣 隆氏とともに見出した新規高脂血症治療薬,プラバスタチンである.もちろん,この薬の開発には数多くの研究者が関わり,スタートから18年もの年月がかかったもので,この二人だけが顕彰されるべきものではない.しかし,パイオニアである遠藤 章氏とそのグループが発見したML236Bが毒性発現のためにドロップアウトした後,御両名がその代謝物(イヌ尿中)がより有効な成分であることを見出し,最終的に医薬品につながったことは強調されるべきである.この業績により1999年,田中 實氏は発酵研究所の寺原 昭氏とともに全国発明表彰・内閣総理大臣発明賞を受賞された.

 田中 實氏は研究のみならず,三共が遅れているとされていたグローバリゼーションにも手腕を発揮された.分析代謝研究所(現在の第一三共・薬物動態研究所に相当する)の所長を辞された後,田中 實氏はデュッセルドルフにある出張所の所長として転出され,欧州における医薬品開発に関する情報収集,臨床試験や新薬申請に係る業務,海外営業戦略の実施など,幅広く活動された.部門が異なるために,私は詳細なことを承知していないのであるが,一度だけ学会出張の折,デュッセルドルフに田中 實氏を訪問したことがある.相変わらずお元気で,当地の名物であるアルトビールをご自宅の冷蔵庫が空になるまで頂いて,ホテルに戻ってからは卒倒して寝た覚えがある.まるで研究所時代を彷彿とさせるもので,今となっては胸が痛くなるほどなつかしい思い出となっている.

 医薬品開発支援機構(APDD)にも,田中 實氏は積極的に関わって下さった.多くのことが時間とともに風化してしまう前に,APDD設立の際,田中 實氏を含む薬物動態学会有志の人々の活動について,短く書いておきたいと思う.今から二十数年前,1991年の薬物動態学会年会(福岡)において,「新医薬品開発にかかわる諸問題」というシンポジウム(当時フォーラムと呼んでいた)が開催された.そこでは2つの問題,日本でなぜRI標識した薬物の臨床試験が実施できないのか,また,ヒト臓器・組織試料を研究目的に利用できないのか,について議論された.田中 實氏は,ヒト遊離肝細胞の有用性について講演された.2つの問題を巡る状況はなかなか進展を見なかったが,後者は,2002年にHAB協議会(現在のHAB研究機構)が設立され,米国からヒト由来試料を導入することによって,おおよそ解決された.一方,ヒトRI試験については,時間がかかった.年会後,この問題に対する有志の会が組織され,どうしたら我が国でヒトRI試験が実施できるようになるのか,真摯な議論が重ねられた.会合は何度も開催され,ほとんど手弁当での集まりであった.結局,法人を設立して活動を継続するしかないと結論され,2005年に定款を定めてAPDDが設立された.田中 實氏は,有志の会のメンバーとして,またAPDD社員および監事として積極的に活動を支援して下さった.お陰様で,2016年,日本人を対象とする14C-標識体を用いたマスバランス試験が成功裡に実施され,長年の問題に一応の終止符が打たれたのである.

 田中 實氏は,研究所内では「みのるさん」と呼ばれていた.同じ田中姓の人が3人いたためであるが,所長になられてからもそう呼んでも良さそうな風格の持ち主であった.今となっては届かぬと分かりつつ,次ぎの言葉をおかけして哀悼の意を表したい.

 「みのるさん,長い間お疲れさまでした.みのるさんの言葉は我々の心にしっかりと生きています.どうか,後顧の憂いなく安らかにお休みください.でも,みのるさん,向こうに行っても飲みすぎちゃだめですよ!」

合掌.